おじいさんの後ろ姿


混み合った駅の中を歩いていた。

私の前に紺のトレーナーを着た中期高齢者(75〜84歳のことを示す言葉だそう)と思しき男性が歩いていた。顔も見えないし、何もわからない。が、その後ろ姿から、だいたいそれくらいの年齢だと想像できた。


一瞬で、思いもよらなかった疑問が湧き出た。それは「この男性は、いつ“抱きしめられた”だろう?」だった。自分でも、そんなことを考えたこと自体、ちょっと驚いた。そして、なぜか涙腺が緩んだ。


妙な光景だ。新橋の駅で、そつのない黒のワンピースに白いビジネスジャケットで身を固め、髪を美容室でセットしたばかりの(講演会前だったのです)女性が、おじいさんの後を涙ぐみながらトボトボとついていっている。


わたしの推測はそれから勝手に展開していった。 「このおじいさんは長いこと、いや、もしかしたら一度も“ハグ”をされたことがないのではないか、もちろん結婚し子どもを設ける世代時期には“そのような行為”もあったに違いない、しかし、そういうことではなく、毎日の日々の生活の中で、ふとした時に自分が“愛されている”“ケアされている”と感じるような“ふれあい”というのだろうか、仮に”ハグ”はいまどき過ぎることであっても、例えばちょっと肩に手を置かれたり、もっというと握手をしたり、頑張って手を繋いだり、というようなこと・・・この世代の男性には、特に縁のあまり無いことに違いない・・・・・・。」


それは完璧に憶測以外の何物でもない、わたしの勝手な創作ストーリィだ。・・・でも、外れているとも、思えない。


わたし達の多くは(文化的なこともあるかもしれないけれど)基本的に、相手に対する肯定的な感情や気持ちを表現することを躊躇する。それは「はしたない」という思いや「拒否されたらどうしよう」という恐れや「関係性を曖昧にしておくのが得策なのだ(愛していても、いなくても、そもそも何も表現していなければ、自分が相手のことをどう思っているかということで争いにはならない)」という男女関係の施策かもしれない。 幼い子どもと母親はスキンシップで安心を得る。恋人たちは手をつなぎ唇を寄せロマンスを分かち合う。政治家は握手して友好関係を示す。多民族国家のアメリカでは握手で敵意がないことを、そしてハグまたはキスで親密さを確認する。


日本のおとな世代だって、本当は「安心」「友好関係」「敵ではないこと」「親密さ」そして場合によっては「ロマンス」を毎日、感じたいに違いない。目の前のおじいさんだって、そう。歳をとったって、喜びは同じ。もちろん、わたしだってそうだ。


本当は、おじいさんには愛妻がいてラブラブな毎日を過ごしているのかもしれない。けれど、日本で一般的なわたしを含む現役おとな世代には、希薄な関係性が蔓延している。距離があって当たり前、ハグがなくて正解、何も言わなくても絆があるのが家族・・・本当は、みんなシンプルに「愛してる」って、「あなたのこと、気にしているよ、大好きだよ」って、誰かに言ってもらいたいに違いない。別に男女関係じゃなくても、そういうことが、その人の「生きる力をほとばしらせる」ことにつながることなはずだ。ちなみに、男性にインスピレーションを与える女性をミューズという。薬用液体石鹸では、ない。


私の父はもうすぐ90歳。最近では歩き方も若干おぼつかないことがあるという父だが、「健康のため」・「節約のため」と、リュックを背負い徒歩で片道30分はかかるスーパーへとチラシ掲載食品を買いに行く。遠くに住んでいて、会うたびに年老いていく父の姿を感じては、どうしたら、わたしが父のことを愛していることがわかってもらえるだろうか、といつも思う。


わたしの前を歩く男性は、父親の後ろ姿と少し似ていた。誰かがこの男性のことを愛して、ハグか、せめて握手をしていてくださいますように。


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。

言わなくても、触れなくても、伝わるっていうのは、便宜上できたウソだと思う。   

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

0コメント

  • 1000 / 1000