10年後、恥ずかしくない生き方

「あの時は、馬鹿なことをしたなぁ・・・」

過去を振り返り、思わず顔が赤くなるような、冷や汗が出るような、あるいは穴があったら入りたいと思うようなことが、ある。それも、沢山ありすぎて、思い出しきれない。


「若かったから・・・」そんな風に言い訳じみた考えで、恥ずかしを紛らわせようとしたりする。歳と経験を重ねて、若かりし頃の無知さ加減を知る・・・・・・。


ということは、おそらく、10年後には似たようなことを「今日のこの自分」に対しても思うのだろうな、という考えが沸く。10年後の今より成長した自分から見たら、今の自分は「何をあんなことでジタバタしたのだろう」とか「心配しなくても結局いいようになったじゃない」とか「そんなことで目くじら立てなくても」とか、きっとそういったことのオンパレードなのだろう、と。


“今、一生懸命なこと”も、“今、不安で心配なこと”も、“今、腹を立てていたり、躍起になっていること”があったとしても。そう思うと、なんだか揺れ動いたりするのって、バカバカしい。そういうこともあって、先人たちは「案ずるより産むが易し」という表現をしたのだろうか。


ふと思ったのだが、これは“普通に当たり前の発想”ではないかもしれない。もしかすると、10年後に「成長する」とか「より分別がつく」ことを前提としている感覚を持っていない人もいるのかもしれない。成長することを前提とした場合のみ、今がバカバカしく思えるのだ。成長しなければ、10年後も同じことで同じように感じているに違いない。



今日、わたしは検査のための二泊三日の入院をしている。検査入院とはいえ、入院するとは軟禁状態。病院の棟の外には出ることは許されていない。そう思ってよくよく病院内を見ると、病院の中には、入院患者以外に、ビジターで来ている人、お見舞いに来ている人、医療関係者など、いろいろな立場の人が混在している。それぞれの立場にハマって、病院という箱の中で考え、動き、感じている。当たり前だけど、役割は時と場合によりシャッフルされ、逆の立場になったり、別な立場になったりすることもあるのだ。(わたしが医師や看護師という立場になることはないけれど、それ以外の立場はありうる)


「今日のハマっている役割」で精一杯に感じ、「今日の起こっている出来事」だけで生きていたら、そのことがわかないない。だから、10年先から見たら「恥ずかしい」と思うことをするのかもしれない。もっと、別なところから今日の自分を見ていることができたら、もしかしたら10年後の恥ずかしさを感じる必要はないかも。


「情けは人の為ならず(自分のためなり)」っていう言葉を思い出す。「寄り添う気持ち、慈愛の心を持とう」などというスローガンは、このことをがわかっていたら、いらないんじゃないかな。


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。

あともう少しで検査のために手術台って考えると、それでも少し緊張してしまいます。        

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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