幻想、暴かれる

わたしの中で、パチン、と何かがはじけた。 それは、わたしが長年執着していたある種の”美しく正しい世界”のようなものだった。思いを温めている割には実りが少なく、かつ苦労が多い。体験を積むたびに自信がなくなる、そういう類のものだった。そして、それが「幻想」だった、ということに気づいた時、それが起こった。


あなたの「男女関係」や「恋愛観」の最初の印象は何によってできたのだろうか?全くロマンチックではない問いかけかもしれませんが、よく考えてみていただきたい。そもそも「ロマンチック」というものも「幻想」であるという。そう、私たちは常に幻想の中に生きている。だから、男女関係や恋愛が幻想であるということ自体に、何ら悪いことなどない。


思い返せば、わたしの一番最初の男女関係や恋愛観の印象は、幼少期に見た、みつはしちかこ原作のテレビ番組「小さな恋のものがたり〜チッチとサリー」、あるいは、岡崎友紀と石立鉄男主演のテレビドラマ「おくさまは18歳」だったように思います。その時代のことがわからない世代の方にはチンプンカンプンな話題ですみません。とにかく、これでうちの両親はテレビが子供に与える影響を全く考えていなかったことが、よくわかります。それら恋愛ものテレビ番組を見て幼児だったわたしは、具体的にそれが何であるかということは分からずとも男女関係や恋愛には漠然と、何か秘密めいた他にはない魅力、価値があるもののように感じ取ったのでした。


全ての幻想には「カラー」があるように思われます。カラーとは抽象的な概念ではなく、実際にわたし達の目に見える色で示すことができる色のことです。例えば、恋愛は桃色、ピンク、パステルカラー、男女関係はもう少し複雑で渋みや時にアンビバレントなニュアンスを含むえんじ色やボルドーのワインレッド、または深緑色、といったように。


さて、思春期になると「恋愛が進むと男女関係はどうなるのだろう?」という疑問が自然と現れ、高校生のわたしが考えた答えは「結婚」という非常に安直なものでありました。日本の結婚披露宴では最後に多くの新郎新婦が言葉にする「“あたたかい家庭”」という言葉が示す通り、結婚となると今度は「温度」が伴ったものになるようです。色で示すと、それは橙色、オレンジなどの暖色系でしょうか。


問題とは整合性がないところに起こるもの。


恋愛の場合、特にそれは問題にはなりません。整合性のなさ自体が刺激であり、スパイスやある種のコアになっている場合もあるから。けれども、それが結婚というような長期にわたる男女関係、社会の最小単位、生活や暮らしまたは経済の基盤というふうになると、願っているもの・イメージしているものに逆行するものがあったり、望んでいること・実際にしていることが大幅に異なるような場合は、多分、そのシステム自体が脅かされます。


幼い頃の恋愛に希望を持ったわたし、そして恋愛の先に結婚を夢見る女子高生のわたしが、それとは異質なものを無意識のうちに持ったのは、わたしが中学生の時でした。今でこそ日本は3組に1組が離婚する時代ですが、当時はそうではありませんでした。わたしが経験(傍観)した、ひとまわり年の離れた姉の離婚劇と、そのことによる真面目一徹の元教員の両親の“ハートブレイク”は、わたしの無意識層に、男女関係・結婚生活に対する大きな恐怖と、家庭というものに対する嘆きとも悲願ともつかないようなものを、静かにしかし強固に刻んでいたのでした。


整合性のなさ。わたしは長年、それを男女関係や結婚生活で繰り返してきました。バカの一つ覚えのように。どこかで深く憧れながら、そこにハマることを頑なに拒否してきたのです。手を出しながら引っ込める、とか、その相手が持っているすべもないようなものを求めて手を出し続けたり、など。その一方で、涙ぐましい努力を自分なりに続けてきていました。 そして、その報われない努力のベースにあるものが「幻想」の一つでしかなかったことがわかった時、乾いた音、ほとんど音にもならないような“パチン”という破裂音がわたしの中で聞こえました。


「恋愛は共同幻想」——30年前に読んだ村上龍の小説の一節が、今、突然思い出されました。


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

なんでもそうだけれど、正解はない。「在り方」と「向き合い方」だけなんでしょうね。  

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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