「不確かさの中」の確かさ

「不確かな美しさの中にいる幸せ。」ひとは、そういったものを、好む。

そして、不確かな中の幸せはすなわち「不確か」なのだ。


わたしは、日本最大の避暑地のひとつである軽井沢という町に住んでいる。軽井沢の人口は2万人。そのくせ、夏になると、高原の冷涼さとこの土地の持つエネルギーに魅かれて訪れる人々の数は、実に100倍=200万人以上に膨れ上がる、という珍しいところだ。


わたしが縁もゆかりもない、この軽井沢に移り住んだのは6年前。かねてから「林の中」や「湖のそば」または「小川が流れる広大な土地」のような“世離れした”美しい場所に住みたいと思っていた。それでいて、生粋の田舎暮らしは好まない。素敵なレストランがいくつかあり、都市も近い。そんなのがいいなあ、と夢見て10年近く、国内のリサーチを進めた。そんな中、偶然旅行者として訪れたこの地にすぐさま魅了され、その足で不動産屋に行った。結局、家族四人で移り住んだのはその2年後だったが、ここはわたしにとっての理想の地だ。


誰もいない朝の、霧が立ち上る林の小径(こみち)をひとり歩く。小鳥のさえずりのみが聴こえ、濃厚な緑の匂いがたちこめる空気が、身の隅々まで行き渡る。“一枚の絵”のような世界を立体的に棲む、ということが、可能な場所。それが、わたしの移りすんだ”美しい場所。”


風光明媚な土地は、ここに限らず、世界中のあちこちにある。そして、その土地にいくつかの要素が加わると、そこは「人生で一度は訪れたい場所」として紹介される。例えば、ハワイ、あるいは、プロバンス、はたまたアマルフィ海岸など。どの場所も、絵に描かれ、映像に撮られ、ひとはそこに行ってみたいと思い、行ったら、再び訪れたいと思う。そうした場所は、瞬間瞬間の美しさが、尋常ではない。だからこそ、ひとはそうしたところに惹かれる。


それで、だ。そうした“世離れした美しい”場所というのは、“不確か”なのだ。林の中の霧は、次の瞬間に、消える。旅行で訪れる絵のような“素晴らしい世界”は、旅のひとときだ。そして、旅行で訪れるような素晴らしい場所に(わたしのように)住んだとしても、ひとは、そこでも生活をして生きる“生き物”だ。食べて、寝て、排泄し、稼ぎ、人と関わり、暮らす。故に、“驚かされるようなこと”が、しばしば起こる。そこに“幻滅することがない世界”や、“驚くような実態を目の当たりにすることがない”こともあり得ず、どんなに“美しい世界”を訪れても、あるいは住んだとしても、“100%の美しい世界に常に安住”していることは、できない生き物であり、そうした“システム”の中に暮らしている。“物質的な豊かさ”の限界とは、そこにある。また、“精神的な豊かさ”の限界も、それと同じだ。


わたし達は「不確かさの中の美しさ」を求めて、生きている。不確かさの中に、確かさを得たくて、生きている。そして、ひとそれぞれ、無意識のうちに、今生にふさわしい生き方をしている。


そうだとするならば、揺るぎない「不確かさの中の幸せ」に生きるのが、懸命だ。つまり、自分なりの「世界観」を持ち、その世界観を「不確かさの連続」の中において「揺るぎない世界」に創り上げていく、それこそが「不確かな世界の中において、”確かに生きる”美しさ」を顕在化することであり、わたし達ができる、唯一無二のことなのかもしれない、と。


わたしが移り住んだ地は、完璧だったけれど、そこに住む「わたしの世界観」があり、それを現実に創り上げることによって、初めて「不確かさ」から「確かさ」が生まれるのではないか。

そして、その「世界観」を現実にしていくということによってのみ、「”不確かさ”の中に常にいながら、揺るぎない”確かな幸せ”」ができるのではないか、と。


あまりに抽象的だろうか?


しかしながら、生きるということ自体、実は、抽象的なのだ、と、庭の樹齢300年の山桜の木を見上げながら、思う。そして、その大木の上には、それを照らす中秋の名月が、煌々と光り輝いている。


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

神の手の中(壮大な宇宙の一瞬)にあり、その中で「生き切る」ということを、今宵考えています。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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