怒るときに、起こること

他者の言動に困ったり、悲しみを覚えた時、どうしますか?


「どうしますか」より「どうなりますか」という質問の方が適切かもしれない。というのも、ひとが対人関係で困ったり、悲しみを覚えた時に、「さて、どうしよう」と考えていることはほとんどなくて、たいていの場合“反射的に”リアクションをしているものだから。


ショックなことを他者から言われたり、されたりすると、大雑把に言って「トラウマ」的な反応が体に記憶されると言われています。 そして、似たようなシチュエーションになると、ある一定のパターンの反応を繰り返し起こします。 


わたしの場合、家系的にも、自分の資質的にも、何かネガティブなことがあると「怒る」傾向があります。心理学的には、その背景に色々あると言われていますが、今回、それは割愛します。最近のわたしには、頻繁に、感情が大揺れするような強烈な経験が相次いでいます。そのため、それと向き合っている間に、わかってきたことがあります。それが、これ。


ひとのしたこと・言ったことが、自分の価値観や尊厳を著しく傷つけたと思った場合、大抵ひとは憤慨します。(表面的には、そうならなかったとしても)そして、それは気分の悪いことなので、そのことを自分の中で丸く収めよう・納得しようと、相手の「評価・意味づけ」や、「対処・位置づけ決め」をします。例えば、『あの人は、あんなことも、こんなこともした(しなかった)。』だから『あの人は、わたしのことを利用しようとしていただけなんだ』とか『結局、あの人は人の気持ちなんかわからないし、わかろうともしていないんだ』とか。これが、その言動に対する「評価・意味づけ」です。そして、その意味づけが済んだら『だから、あの人とは距離を置いたほうがいい』とか『早めに縁を切っておかないと、大変なことになる』とか。これが、「対処・位置づけ決め」です。


わたしは、1日のうちで考えられないほど多く反応し、動揺し、憤慨し、落胆する場面が続いたため、このプロセスを繰り返しやっていたことに気づき、これが意味のないことだとわかりました。だって、何回やっても気分は良くならないし、解決もしていないし、結局、なんの変化もない中で自分を守るために、いろいろな納得させ方をしようとしているだけなんだもの。確かに、相手が『こういうひとだから仕方ないんだ』と思うことで、矛先を「自分」に向けなくて済むようになります。別な言葉で言うと、自分の非を認める必要がなくなります。けれどもこれでは、自分に変化は起こきません。ということは、本当の良い方向に向かうこともない、ということです。


このことに気づくまで、頭の中は繰り返しのテープレコーダーのように、他者についての「評価・意味づけ」や、相手の「対処・位置づけ決め」が延々と巡っていました。わたしは、疲れ切って、夜ひとりになった時、初めて本当の意味で、このことがわかった気がしました。結局、他者に対して「評価・意味づけ」をしているわたしが、実は他でもないその評価や意味づけに値するひとだったのだ、と。


他者に対して腹を立てていた、その要素が自分にもなければ、そのことで腹が立つことも、傷ついたと思うこともありません。そして、そんな自分が嫌で仕方ないと思わなければ、ひとを見てそれほど自分と関連づけて考えることはないはずです。


他者との間に見る葛藤は、自分の中にある葛藤。そうわかった後に、わたしの中で出てきたイメージがありました。それは、風の中で吹きすさぶゴミや、ガラクタが飛び散っている嵐のようなものでした。それはまさしく、私の心の風景。 「ああもできた、こうもできた」と、その他者との関係で自分が至らなかったことを素直に見ることができました。また逆に、それまでしても言っても当たり前だと思っていたことを「あんなことをしてしまった・言ってしまった」と思うようにもなりました。「今なら、ああはしないのに」と思うまでに至りました。そして、数日前にはあれほど怒っていたことに対して、これっぽっちも怒りを感じなくなったのです。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

ひとがしたこと意味を見出し意味づけするのは無意味。全ては、自分。 


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Mika Nakano Official Blog

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