「幸せ」は「いい気分」、じゃない

樹齢200年はくだらないと言われる我が家の山桜と辛夷(コブシ)の花が満開になった。山桜の花の命は、わずか数日。我が家の庭が、一年で一番華やかになるのが、この数日だ。 


好天に恵まれた今朝、春の陽に誘われて散歩をした。別荘地に点在するいくつかの小川の横を通ってはワクワクし、道端に可愛らしい小さな花を見つけては嬉しくなる。 そこかしこに、春の息吹が聴こえて来る、こうした環境では、わたしたち人間の心も沸き立つ。自然の生命が、一気に“生きる力”を輝かせ始めている歓びを、感じるからに違いない。 


いつもは素通りする、近くの教会の中に入った。誰もいない教会には、たくさんの花が飾られ、ハープの音楽が流れていた。一番前の席にひとりで座りその場のエネルギーを感じとるべく深呼吸をしながら、“五感”に意識を向けた。 祭壇の上のガラス張りの大きな窓から降り注ぐ光と、新緑が風に揺れる様子を見ながら、ハープの音色に耳を傾け、ひんやりした室内の空気を肌で感じていた。 


ふと「幸せ」という言葉が、浮かんできた。そして、それとほぼ同時に、別な言葉も浮かんできた。「“幸せ”と“いい気分”は、まったく違うもの。」 


ここは、国内では最も歴史のあるリゾート結婚式のメッカ的な教会で、昔から多くの結婚式が開かれて来た。結婚式だけでなく、年間を通して多くの観光客が訪れるため、ハイシーズンには毎日のようにハープやハンドベルのコンサートが催されており、近所に住んでいるわたしは、何度も家族や客人とそのような機会をここで楽しんできた。 わたしが今日、最前列に座ってその場を感じようとしている間も、何人かの観光客が入り口で中を覗いている気配が感じられた。こうした場所に入ると、ひとは静寂で美しいエネルギーに触れ、心は静かに、荘厳に、そして優しくなるものだ。 


人生で一度(または、“数えるほど”)しかない結婚式や、リゾート地の教会での美しいコンサートで、ひとは、「ステキな気分」になる。とても、いいことだと思う。(わたしもその恩恵を受けている。) 

うまく仕事やお金が回ってきたり、素晴らしい休暇、または美味しい食事を楽しむことができると、やはり、ひとは「良い気分」になる。これも、とてもいいことだと思う。(わたしもこれらは大好きだ。) 


でも、「気分」と「幸せ」は、ちがう。それを、多くのひとは、混同している。 


例えば「理想の未来」や「将来のビジョン」ということを考えるとき、人は「幸せ」である自分をイメージする。そして、それを、ある意味“目指し”ながら、そこに至る道筋上にあるはずの“目標設定”をし、それに基づき“計画”を立てたりする。それは、多分、正しい「やり方」だ。


けれど、「幸せ」が、あの「状態」を経験できた時になる、あの「気分」になるために、その「環境」を作るということになると、残念ながら、ほぼ確実なことに、「幸せ」にはならない。なぜなら、「状態」と「気分」が「幸せ」と認識されるのならば、それは幸せが[条件を満たすものかどうか]ということになり、その条件は、非常に変わりやすく、自分のコントロール外にあるということになるから。


「幸せ」とは本来、自分のコントロール内にあるものだ。そうするとそれは変わることも、奪われることもない。最近このことを非常に実感しているのだけれど、「幸せ」は、確実にそれぞれのひとの中に「内包されて」いる。そして、見出され、発動されるのを、待っているのだ。 



人間は、本当に「感情」「体の状態」そうしたことから得る「気分」のために、お金を使う。オネエちゃんのいるお店に行ったり、感動的な本や映画を読んだり見たり、セミナーに出たり。これら全ては身体的・感情的な動きを伴うスッキリ感を得るもので、やることと、働きかける器官は違っても、大きな枠でいうと同じことだ。それに魅せられたひとは、永遠にそれをやり続けたりする。それはそれで構わないと思う。何に時間やお金、人生を費やすかは、自由だから。 


「幸せ」は「気分」や「状態」ではない。 「状態」や「気分」は「幸せ」かどうかを教えてくれはするけれど。 


今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。 

幸せのシステムがわかり、この世のシステムがわかると、もう怖いものはない。 


ザ・ライフアカデミーでは、こうしたことを、遊びながら、学習しながら、経験を通して訓練します。 

Mika Nakano Official Blog

軽井沢から、ライフ・文化・自己実現・現実化・コーチング・ピープルビジネスのエッセイをお届けしています。

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